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2008年7月14日 (月)

『オンリーワン』による甘えの助長

 以前の記事であの秋葉原大量無差別虐殺犯、加藤智大のことを取り上げました。
 その際に、『「インシャーラー」お元気ですか?』の元気様から『国籍云々は明らかにはなりませんが、この犯人が正真正銘日本人なら… 日本の教育や家族は機能しなくなっているという証拠でしょう。ヤバイですよ。何故に、教育が大事だったか。何故に、日本は世界と肩を並べるまでに発展したのか…。それが危機的な状況に来ているということは、日本の将来は根幹のところで崩壊しつつあるのかもしれません。』とのコメントを頂きました。
 元気様は『拡大解釈のしすぎですかね。私の危惧であれば笑ってもらって良いです。』と付記されておりましたが、ぶっちゃけ笑えないんです、この話。
 特に現場を知っておりますとね、この話、本当にシャレにならないんです。
 
 そもそも教育というものの目的が一体何かご存知でしょうか。
 読み書きを教える?
 方程式を解かせる?
 ノーノー。
 もちろんそれもありますが、これらは主目的の一端でしかありません。
 ではその主目的とは何か、という話ですが、単刀直入に申し上げれば、それは『社会に対応できる人間を育成する』ということであります。
 読み書き教えるのも数式解かせるのも、体育で身体を育成するのも、その子の個性を伸ばしてやるのも、これら全て社会に出て困らない、そしてできるならば活躍できるようにするためのものなのです。
 もちろん教わったことを全て使うかといわれれば否ですが、それは分野によって使う物事が違うわけで当然であり、そもそも使うことだけ教えるというのであれば工業高校なり商業高校なり行くべきなのです。
 実際ドイツでは10歳の時点で専門的な職業学校に行くか、大学へ行くためのギムナジウムに行くかを決めます。
 つまり10歳の時点で進路が決定してしまうわけです。
 
 話は反れましたが、ともわれ学校における教育というものが『社会に対応できる人間を育成する』ことを目的としていることはご理解いただけたでしょうか。
 まぁ厳密にやり始めますと様々な論争もあり、また東雲の持論を展開するにしてもゲシュタルトやら集団心理による排他作用やら欲求および葛藤やらなど込み入った話をしなけりゃならなくなってきますんで省きますが。
 つか、一日二日じゃ終わらないんで勘弁して下さいorz
 
 とにかくそんな教育目的でありますが、しかしこの観点から申し上げますと学校教育は既に崩壊していると言えるのです。
 それは何故か。
 結論から申し上げてしまえば、『オンリーワン教育』が原因なのでございます。
 『オンリーワン教育』とはすなわち、『個の重要性』をことさら強調し、『個性』というものを育成しようとして、結果的に『集団における個人』という意識を低下させる教育であります。
 もちろん『個性』を育成することが悪い、という話ではありませんが、現在の現場では『個人』を尊重するあまり、『集団』を蔑ろにしがちなのです。
 
 東雲、実はあの加藤と同世代にあたるのですが、私が中学の頃、ちょうど一斉の業者テストが廃止された頃であり、『生徒への順位付けはけしからん!』と盛んに騒がれた頃であります。
 以来ことさら『順位』というものに神経質になり、例えばテストの順位を張り出すこともなく、また運動会でもゴール前でみんな揃って一等賞などとわけの分からないことをやるようになりました。
 そしてテストの点数が低い子どもにはことさら『個性』を尊重し、その劣っている部分を改善させようというのではなく、とにかく『個性』を褒めちぎるというようなことをやり始めました。
 とにもかくにも『個人』が大事、お前には『価値』があると、『ナンバーワンよりオンリーワン』を強調し、個人をちやほやし始めたのです。
 
 しかしそれは社会という『集団』においてはそれは特異なことでありまして、同じようなことをしている人間はごまんとおり、すなわちその中で競争していかなければならないのが普通であります。
 また仮に『個性的』なことをやっていたとしても、少しだけ範囲を大きく見てやれば、それはどこかしらのグループに所属する事項であり、やはり競争していかなくてはならないのです。
 つまり『集団』においては『今自分がどのランクにいて、更に上に行くにはどうすればいいか』を考えなければならないのですが、しかし『オンリーワン教育』を受けた人間といいますのは、とにかく自分に『価値』がある、無条件に『価値』があると教えられておりますので、その『価値』が相対的に見て大したものではないということが理解できないのです。
 結果、『自分には価値があるのに周りがそれを認めない』と、ただただ周りに不満を募らせるのです。
 これは別に加藤に限った話でなく、例えばニートが『自分はできるんだけどやりたい仕事がない』なんて言ってる辺りの話にも当てはまります。
 全体でみればそいつができることなど高が知れている。
 しかし無条件の『価値』を教えられているものですから、『自分にはもっとすごいことができるんだ』と勘違いしてしまうのです。
 
 また、『オンリーワン』とまではいわなくても、『ナンバーワン オブ アラウンド教育(長ったらしいんでNA教育)』をやっている場合もございます。
 これはほんの小さなグループ、わずか数人から、せいぜい一学年程度の人数まででものを見て、その中のトップクラスを褒めちぎることです。
 社会に出れば何十万、何百万、はたまたもっと多くの人間と競っていかなければならないのに、せいぜい数十人かそこらでトップだったからとチヤホヤする。
 これはともすれば『オンリーワン教育』よりも危ういんですが、仮にも集団の中でトップだったという認識が、社会というとてつもなく巨大な集団を無視して定着してしまいますと、いざ社会に出たときに『こんなはずじゃない』と現状を理解できなくなるのです。
 本来ならば上には上がいることを教えなければいけない(そのために一斉業者テストなどは有効だったんですが)のですが、それを言うよりべた褒めする方が楽なもので、それをする教師というものがなかなかいないのです。
 よく偏差値エリートなんていいますが、これはそういった人間に良く見られます。
 結局中学やら高校やらの勉強内容なんて狭い枠でトップを取り、それで褒められ有頂天になって、現実を知り凹むんですから、いやはやシャレになりません。
 まぁ、かくいう私も中学ではトップクラス、高校入って現実を知った組ですが……。
 
 ともわれそういった『オンリーワン教育』や『NA教育』と申しますのは、結局のところ何かにつけて児童生徒を褒めちぎる、無条件に『価値』があると教える『甘やかし』なのでありまして、『甘えた』人間をぼっこんぼっこんと育成するものなのであります。
 また、こういった過度に『個人』や『個性』を強調する教育は『集団に対する個人の優先意識』を助長させまして、結局『社会的道徳』や『常識』を軽視する原因となります。
 『社会に対応できる人間を育成する』ためには、『個人が社会に帰属している』ということをまず一番最初に教えなければならないのですが、『個人』を重視するあまりこちらが蔑ろにされてしまうのです。
 
 元気様はコメントにて『日本の教育や家族は機能しなくなっている』と仰られておりますが、厳密には『機能させなくしている』のが現状でありまして、社会を見せ、競争させ、順位をつけ、そしてどうすればより上にいけるのかを教えることこそ、文部科学省の言う『生きる力』であり、またそれをすることが現場教師の急務だと考えております。
 (順位をつけ、『お前ダメだな』というだけでは当然ながら話になりません)
 それができなければ日本の将来はこのまま崩壊しつづけるでしょうね。

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