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2008年10月27日 (月)

これで教育ができるものか!

 先の中山前国交相発言から改めてスポットが当たり始めました日教組の害毒性。
 どこぞのヒダリっぱ新聞などは、『実効性』にはほとんど関係ない『組織率』を持ち出して『成績とは関係ないニダ!』なんて火消しに躍起になっておりましたが、しかし今までの行いが行いだったもので、森元首相からも発言が飛び出し、果ては日教組と教育悪化の関係を否定していた塩谷文部科学大臣すら、しぶしぶっぽいが認めた様子。
 以前より『教育改革の第一歩は日教組の解体から』を申し上げておりました東雲としましては、この勢い失ってほしくないと思いますが、さてそんな日教組に対し、中山発言を肯定してました橋下大阪府知事がこんなこと申されたようなのでご紹介します。
 まずはこちらをご覧ください。

<以下引用>

橋下知事、ヤジに応戦「こういう教員が現場で暴れている」
10月26日23時53分配信 読売新聞

 大阪府の橋下徹知事と府教育委員らが教育行政について一般参加者と意見を交わす「大阪の教育を考える府民討論会」が26日、堺市の府立大学で開かれた。

 訪れた教職員の一部から再三ヤジを飛ばされて興奮した知事が「こういう教員が現場で暴れている」「(日教組批判などで国土交通相を辞任した)中山成彬前大臣の発言はまさに正しい。これが教育現場の本質」と述べる一幕があった。

 また、子どもの指導方法についても言及した知事は、「ちょっとしかって、頭をゴッツンしようものなら、やれ体罰と叫んでくる。これでは先生は教育が出来ない。口で言ってわからないものは、手を出さないとしょうがない」と、体罰容認とも受け取れる持論を展開した。

<Yahoo Newsより>

 もうね、いちいち正論過ぎて困りますよ。
 ブログで書くことないじゃないですかw

 とはいえ記事だけ載せて『はい、おしまい』では閲覧者様方に見捨てられてしまうこと必至ですのでいささかのコメントを。

 そもそもこの野次と申しますもの、国会などでもよく見かけるのですが、なんとも見苦しいものだと東雲は思います。
 特に彼ら教職員は、生徒に対して『人の話を聞くときは黙って聞きなさい』と教える立場でございまして、そんな連中が、人が話しているときに野次飛ばすってどうよと、東雲などは思うわけでございます。
 果たしてそんな教師に言われて従う生徒がいるでしょうか。
 『自分がやっていないのに、偉そうに人に言うな』と言われるのがオチな気がします。
 授業中に生徒が騒いでいたとして、連中は『静かにしろ』という資格がない。
 となればもう、学級崩壊一直線。
 そりゃ教育も崩壊するってもんです。

 この橋下『先生』の『注意』で赤面して口をつぐんだというならまだ救いもありましょうが……まぁないだろうなぁ……。
 そういった教員資格のない連中は早々に辞表を提出し、教員免状を返上していただきたく存じます。

 ちなみに体罰についてですが、東雲は基本、賛成方針です。
 基本的に子供というものは狡賢いものでありまして、『この先生は舐めてかかれる』『この先生はきちんとやらなきゃまずい』と、明確に区別するものです。
 叱ることもほとんどしない、体罰なんてもってのほか、生徒とは友達のように触れ合いたいと考える『お友達教師』は往々にして前者に分類され、厳しい先生は後者に分類されます。
 昨今の教師ものドラマや漫画などの影響か、『お友達教師』が秀でていると勘違いされている傾向があり、また教育学部においてもそれを目指すような学生がおりますが、少なくとも学級崩壊が起こるのは『お友達教師』のクラスである場合が非常に多い。
 これは統計でも明らかとなっております。
 そして学級崩壊したクラスはもはや先生の話なんぞ聞きませんから、授業は当然出来などしない、さすがにヤバイと思って注意しても後の祭りで聞きゃしない、そんな状態に陥ります。

 『悪いことをすれば痛い目にあう』
 これはきわめて重要なことでありまして、また悪いことをさせないための抑止力でもあります。
 言ってみれば法と懲戒の話でありますが、だからこそ、悪いことをした生徒には明確に『痛い目』にあわせなければなりません。
 この『痛い目』が拳骨である必要はありませんが、しかし拳骨こそがもっとも明白に理解できる『痛い目』なのです。
 
 ただ、誤解しないでいただきたいのですが、東雲は暴力を容認するものではありません。
 どうにも体罰=暴力と捕らえられる傾向があり、まぁ実際に拳骨を振るってはいるのですが、そもそもとして目的が違います。
 体罰とは読んで字のごとく『罰』であり、生徒の更正とルール違反の予防という観点から行われます。
 一方暴力は相手を痛めつけることを目的とします。
 こう申しますと『そんなの欺瞞だ! やってることは同じじゃないか!』という声も聞こえてきそうなのですが、目的も違えば手段も違うものでありまして、実は体罰を与える際には様々なことを考えなくてはなりません。
 まずその違反は体罰を与えるべきものなのか、対象生徒の性格を含めて鑑みた場合に口頭注意、あるいは労使で十分ではないのか、体罰を与えた場合のデメリットはどれほど出る目算か、と。
 次にどの程度の体罰を与えるべきなのか、例えば拳骨を使うとしてどこをどの程度の力で打てば生徒のその後の生活に影響なく罰を与えることができるか、あるいはマラソン等の体罰を与える場合に生徒の身体的能力や障害はどうか、と。
 また体罰後にその生徒をきっちりサポートするにはどうするか、立ち直らせることはできるか、その方法は、と。
 そして体罰を行う際に、きちんと冷静に対処できるか、決して感情的にならないか、と。
 それらすべてを勘案し、そこでやっと更正のための体罰を行うことができるのです。
 そしてこれらのうち一つでもかければ、それはただの暴力でしかありません。
 体罰というのは一人ひとりの生徒を熟知し、冷静に対応し、サポート体制を充実させることによってやっと行えるものであり、普通に授業するよりもはるかに高度な思考と技術を必要とするのです。

 ただ、残念ながら現在の教師の多くは体罰=暴力と勘違いしており、また体罰を行うだけの技量を持たないため、体罰と称して暴力を振るってしまいます。
 体罰はその性質上、できない人間がやっていいものでなく、だからこそ東雲は『基本、賛成方針』なのであります。
 体罰を完全に容認するためには、まず教師陣がそれだけの理解と技量を持つことが必要と、東雲は考えております。

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